インターバル
走って走って、走って、そのまま倒れこんだ。頂上だ。小さな駐車場脇の草むらに、勢いをすこしづつ殺しながら、自転車をとめてそのまま。
はあっはあっはあっはあっ。
滝のような汗が全身から吹き出して、体の線にそって流れ落ちていく。
「ど、っちだ」
「知る……、か」
「なん、だと」
「おめーじゃ、ねえ、の」
今の勝負はどちらのものか。東堂はいつもそこにこだわるが、巻島はべつに、どっちでもよかった。勝っているとか負けているとか、たしかに大事なことではあるが、いつもいつもそのために走っているわけじゃない。レース以外で、とくに東堂と走るときは、そうだ。
自転車は足元。左側に視線を傾けると、東堂の黒い頭がすぐ近くに見える。
激しい呼吸で痛んでいた肺がようやく落ち着いてきた。大きく息を吸い、ゆっくりと細く、吐き出す。呼吸が次第にもどっていくる。
空を見上げる。澄んで高い、秋の初めの空が視界いっぱいに広がっている。山頂の、空に近いところから下りてきた冷たい風が、寝転がる二人の上を吹き渡っていく。
「気持ちがいいな!」
東堂が無駄にはっきりと、大きな声で言う。そうだな、と小さく答えて、巻島は目を閉じた。薄い瞼越しに、太陽の光が柔らかくまぶしい。
さっきからずっと左手の指先が東堂にかすかに触れているのが気になって仕方がない。なんとなく、腕が固まったみたいに動かせない。巻島は眉を顰め、ざわりと震えた胸の真ん中を、右手の汗を拭うふりでこすってごまかした。指先が、熱い。
東堂はいつも突然やってくる。今日もそうだった。いきなりの電話に巻島が呆れている間に、場所や時間を勝手に決めてしまっていた。
巻島はといえば、急すぎるとか勝手すぎるとかひととおり論いながらも、今まで一度だってそれに逆らったことがない。休日なら、ひとりでいたって、どうせ登るのだ。二人で競った方がいいに決まっている。そう言えば東堂は、「巻ちゃんは素直じゃないな」と言いながら巻島の髪に手を伸ばし、先端をつんと引いて、にやりと笑ってみせた。登りはじめる前、準備をしながら軽く話したときのことだ。
「やめるっショ」
首を振って離れると、東堂は静かな視線をまっすぐにむけて、巻島の目を覗き込む。
「楽しいなら楽しいと言えばいいのに、巻ちゃん」
ペダルを回す。坂が目の前に迫ってくる。登る。その繰り返しの中にある無心はたしかに、苦しいばかりというわけじゃあない。
が。
「楽しい、……かァ?」
東堂と走ることと、山を登ることは、巻島にとってはとても近いところにある。試合であろうがなかろうが、頂上に近づけば近づくほど、その存在も近くなった。空気のようでもなく、けれど違和感なく当たり前のように、前方に背後にその姿を見ながら、もう幾度も走った。
「オレは楽しい。巻ちゃんがいるといないとじゃ、山の楽しさが全然違うぞ。チームでの練習も大切だが、これはそれとはまったく別のものだ。巻ちゃんはそうは思わんか?」
巻島は黙った。思わないわけがなかった。東堂と走るのは、チームでの練習とは違う。裏門坂をひとりで登るのとは、まったく違う。かといってそれに頷いてみせるのはなんだか気恥ずかしい気がしたし、そのときの東堂のしたり顔が目に浮かぶようで、なんとなく同意する気になれない。
(だからって笑顔で、とか、ねえっショ)
東堂と走るのはたしかに楽しいかもしれないが、走ること以外、なにもない。それ以外の事などまったく必要じゃないからだ。
同い年のクライマーというだけで、とりたてて親しいわけでもない。そういえば多分東堂は怒るだろうが、巻島にとってはそれが事実だった。
すべては自分のためだった。強くなるため。山をより速く登るため。山に近づくため。山と、……
けれども、そのことがどんどん東堂を自分に近づけていることに、そして自分が東堂に近づいていることに、巻島はとっくに気がついている。
(ホント、……山みたいなやつ)
登っているうちは、全体像が見えない。登って下界を見下ろしたときに感じる、背後に包み込むようにある漠とした深さ。遠くから見ればすべて把握できたように思うのに、近くなると、そのかたちを何故だか思い出すことが出来なくなる。
東堂の右手が、巻島の左手からふわりと離れた。ホッとして見ると、東堂は目は閉じていて、くうくうと小さく寝息を立てている。
(寝るか?ふつう)
確かに気持ちはいい。日差しは穏やかだし、程よく風が吹いて、眠気を誘われないこともない。
巻島は長い脚を折り曲げて膝を立て、腕をあげて大きく伸びをした。くわあ、と自然にあくびが漏れる。
(これじゃこっちまで寝ちまうショ)
巻島は腹筋だけで体をひょいと起こし、背後に両手をついて体を支えて、後ろにぐいと首をそらした。首が隠れるくらいに伸ばし た髪は、さらりと後ろに流れる。そろそろ切らなくては、と思うのだが、つい億劫でそのままにしがちだ。
そういえば東堂も髪は長めだった。眠る顔を眺めながら思う。トレードマークといってもよいであろうカチューシャが、寝そべっているせいで少し浮きかけて、前髪が乱れている。
そこへ手を伸ばしたのはホンの出来心だ。前髪はどれくらいの長さなのだろうと。指先で表面をするりと撫ぜ、はじめはそっと外そうと摘んでみた巻島だったが、途中で面倒になって、ぐいと引き抜いた。耳の横の髪が輪っかになって乱れ、前髪がぼわりとふくらみ、そのままばさりと耳の横に落ちた。東堂は目を開けなかった。
「クハ……」
なんだか間抜けな様相だ。普段美形美形とうるさいだけに、東堂は、こういう気の抜けた様子をあまり見せない。
(やっぱ長えのナ)
引き抜いたカチューシャを、ぽんと胸の上に投げる。
風が下草をさわさわと鳴らす以外周囲に音はなく、山の中はひっそりと静まり返っている。時折、遠くのほうから車のエンジン音がかすかに聞こえてくるくらいだ。
巻島は座ったままで目を閉じた。山の、もっと上のほうで、鳥が鳴いている。
眠ってしまったものの勝ちだった。巻島は鼻の下を指でこすり、すん、と息を吸った。
起きるまで待つのも悪くはないと思いつつ、巻島は立ち上がった。足元の自転車を起こし、音を立てないように、そっとその場を離れる。
追いかけてこなければそれでもかまわないと思ったが、きっと、すぐに追いかけてくるだろう、とも思う。頭の上で立ち止まって、上からじっと見下ろす。口許がもぞもぞと動いている。
「クハハ」
(さっさとこいよ尽八、まだまだ走り足りねえショ)
巻島はサドルを跨ぎ、緑に縁取られた空をもう一度仰いだ。夏の終わりの青い空に四角い雲がいくつもぷかぷかと浮いている。鳥の影がさっと、タイヤの前を滑るように横切っていった。
振り返って、出し抜けにむくりと起き上がった背中を一瞥し、巻島はペダルを踏み込んだ。
「……巻ちゃん!?……うわ、髪が!」
聞こえてきた調子はずれの声に、巻島はクハハハと声を上げて笑った。
はあっはあっはあっはあっ。
滝のような汗が全身から吹き出して、体の線にそって流れ落ちていく。
「ど、っちだ」
「知る……、か」
「なん、だと」
「おめーじゃ、ねえ、の」
今の勝負はどちらのものか。東堂はいつもそこにこだわるが、巻島はべつに、どっちでもよかった。勝っているとか負けているとか、たしかに大事なことではあるが、いつもいつもそのために走っているわけじゃない。レース以外で、とくに東堂と走るときは、そうだ。
自転車は足元。左側に視線を傾けると、東堂の黒い頭がすぐ近くに見える。
激しい呼吸で痛んでいた肺がようやく落ち着いてきた。大きく息を吸い、ゆっくりと細く、吐き出す。呼吸が次第にもどっていくる。
空を見上げる。澄んで高い、秋の初めの空が視界いっぱいに広がっている。山頂の、空に近いところから下りてきた冷たい風が、寝転がる二人の上を吹き渡っていく。
「気持ちがいいな!」
東堂が無駄にはっきりと、大きな声で言う。そうだな、と小さく答えて、巻島は目を閉じた。薄い瞼越しに、太陽の光が柔らかくまぶしい。
さっきからずっと左手の指先が東堂にかすかに触れているのが気になって仕方がない。なんとなく、腕が固まったみたいに動かせない。巻島は眉を顰め、ざわりと震えた胸の真ん中を、右手の汗を拭うふりでこすってごまかした。指先が、熱い。
東堂はいつも突然やってくる。今日もそうだった。いきなりの電話に巻島が呆れている間に、場所や時間を勝手に決めてしまっていた。
巻島はといえば、急すぎるとか勝手すぎるとかひととおり論いながらも、今まで一度だってそれに逆らったことがない。休日なら、ひとりでいたって、どうせ登るのだ。二人で競った方がいいに決まっている。そう言えば東堂は、「巻ちゃんは素直じゃないな」と言いながら巻島の髪に手を伸ばし、先端をつんと引いて、にやりと笑ってみせた。登りはじめる前、準備をしながら軽く話したときのことだ。
「やめるっショ」
首を振って離れると、東堂は静かな視線をまっすぐにむけて、巻島の目を覗き込む。
「楽しいなら楽しいと言えばいいのに、巻ちゃん」
ペダルを回す。坂が目の前に迫ってくる。登る。その繰り返しの中にある無心はたしかに、苦しいばかりというわけじゃあない。
が。
「楽しい、……かァ?」
東堂と走ることと、山を登ることは、巻島にとってはとても近いところにある。試合であろうがなかろうが、頂上に近づけば近づくほど、その存在も近くなった。空気のようでもなく、けれど違和感なく当たり前のように、前方に背後にその姿を見ながら、もう幾度も走った。
「オレは楽しい。巻ちゃんがいるといないとじゃ、山の楽しさが全然違うぞ。チームでの練習も大切だが、これはそれとはまったく別のものだ。巻ちゃんはそうは思わんか?」
巻島は黙った。思わないわけがなかった。東堂と走るのは、チームでの練習とは違う。裏門坂をひとりで登るのとは、まったく違う。かといってそれに頷いてみせるのはなんだか気恥ずかしい気がしたし、そのときの東堂のしたり顔が目に浮かぶようで、なんとなく同意する気になれない。
(だからって笑顔で、とか、ねえっショ)
東堂と走るのはたしかに楽しいかもしれないが、走ること以外、なにもない。それ以外の事などまったく必要じゃないからだ。
同い年のクライマーというだけで、とりたてて親しいわけでもない。そういえば多分東堂は怒るだろうが、巻島にとってはそれが事実だった。
すべては自分のためだった。強くなるため。山をより速く登るため。山に近づくため。山と、……
けれども、そのことがどんどん東堂を自分に近づけていることに、そして自分が東堂に近づいていることに、巻島はとっくに気がついている。
(ホント、……山みたいなやつ)
登っているうちは、全体像が見えない。登って下界を見下ろしたときに感じる、背後に包み込むようにある漠とした深さ。遠くから見ればすべて把握できたように思うのに、近くなると、そのかたちを何故だか思い出すことが出来なくなる。
東堂の右手が、巻島の左手からふわりと離れた。ホッとして見ると、東堂は目は閉じていて、くうくうと小さく寝息を立てている。
(寝るか?ふつう)
確かに気持ちはいい。日差しは穏やかだし、程よく風が吹いて、眠気を誘われないこともない。
巻島は長い脚を折り曲げて膝を立て、腕をあげて大きく伸びをした。くわあ、と自然にあくびが漏れる。
(これじゃこっちまで寝ちまうショ)
巻島は腹筋だけで体をひょいと起こし、背後に両手をついて体を支えて、後ろにぐいと首をそらした。首が隠れるくらいに伸ばし た髪は、さらりと後ろに流れる。そろそろ切らなくては、と思うのだが、つい億劫でそのままにしがちだ。
そういえば東堂も髪は長めだった。眠る顔を眺めながら思う。トレードマークといってもよいであろうカチューシャが、寝そべっているせいで少し浮きかけて、前髪が乱れている。
そこへ手を伸ばしたのはホンの出来心だ。前髪はどれくらいの長さなのだろうと。指先で表面をするりと撫ぜ、はじめはそっと外そうと摘んでみた巻島だったが、途中で面倒になって、ぐいと引き抜いた。耳の横の髪が輪っかになって乱れ、前髪がぼわりとふくらみ、そのままばさりと耳の横に落ちた。東堂は目を開けなかった。
「クハ……」
なんだか間抜けな様相だ。普段美形美形とうるさいだけに、東堂は、こういう気の抜けた様子をあまり見せない。
(やっぱ長えのナ)
引き抜いたカチューシャを、ぽんと胸の上に投げる。
風が下草をさわさわと鳴らす以外周囲に音はなく、山の中はひっそりと静まり返っている。時折、遠くのほうから車のエンジン音がかすかに聞こえてくるくらいだ。
巻島は座ったままで目を閉じた。山の、もっと上のほうで、鳥が鳴いている。
眠ってしまったものの勝ちだった。巻島は鼻の下を指でこすり、すん、と息を吸った。
起きるまで待つのも悪くはないと思いつつ、巻島は立ち上がった。足元の自転車を起こし、音を立てないように、そっとその場を離れる。
追いかけてこなければそれでもかまわないと思ったが、きっと、すぐに追いかけてくるだろう、とも思う。頭の上で立ち止まって、上からじっと見下ろす。口許がもぞもぞと動いている。
「クハハ」
(さっさとこいよ尽八、まだまだ走り足りねえショ)
巻島はサドルを跨ぎ、緑に縁取られた空をもう一度仰いだ。夏の終わりの青い空に四角い雲がいくつもぷかぷかと浮いている。鳥の影がさっと、タイヤの前を滑るように横切っていった。
振り返って、出し抜けにむくりと起き上がった背中を一瞥し、巻島はペダルを踏み込んだ。
「……巻ちゃん!?……うわ、髪が!」
聞こえてきた調子はずれの声に、巻島はクハハハと声を上げて笑った。
2年の秋くらい?(10/8/12)
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