フィーリング

 それはぼんやりとした不安だった。
 まずはじめには希望があって、その実現を思えば髪が逆立つような高揚を覚える。
 その時になればきっと叶うと信じる気持ちは強かったけれど、現実は容赦なく、巻島にある種の答えを突きつけていた。ずっと。
 ずっと、信号は黄色のまま。青になる気配はなかった。いずれは赤になる日がくるのだろうというあきらめの気持ちも、胸の片隅に抱えていた。
 それが、ついほんのさっきまでの、巻島裕介の現状だった。
 名前もうろ覚えだ。小野田……下は、なんだった。なんかちょっと、変わった名前。
 ついさっき生まれて初めてロードに跨った初心者が、一年生レースで山頂を獲った。
 常識はずれもいいところだ。今までそんな新人がいただろうか、いや、いない。いねえ。いねえショ。
 混乱と興奮の渦に溺れそうな思いで胸を喘がせる。これは、嬉しいとかそんな単純な気持ちじゃない。底の方にたゆたう沸騰しそうに熱い感情は、凶暴で、地面を割って噴き出してきそうなあれだ。マグマみたいな、あれだ。
 口を開いたら思いっきり叫んでしまいそうなくらい胸がいっぱいになってしまっていたから、帰り道は無言をとおした。田所はそんな巻島を訝ってしきりに話しかけてきたがひたすら無視した。しまいにはくすぐられて道の真ん中で体を二つに折って笑わせられる羽目になったが、むしろ、そうして笑えたおかげで歓喜に変換して、巻島は、たまりにたまった胸のつかえごと、一気に吐き出せたような気がしたのだった。


 クライマーの後輩ができた。
 一つ上の先輩が昨夏引退して以来、自分以外のクライマーがいないチームで過ごしてきた巻島にとっては待望の一年生だ。
「どうだ?」
「どうだって……」
 昼休みの部室に、三年生が顔をそろえて、今日からはじまる個人練習の打ち合わせをしている。
 とはいえたいした話し合いは行われない。だいたいすることは決まっている。一年の個性を見極めるのが第一で、そこからどこまで鍛えられるか、伸びて行けるか。そのための課題を見つけてやるのが先輩としての役割だったが、達成されるかは結局本人のやる気と資質によるところが大きい。
 と思っている巻島に、田所が全く正反対のことを問いかける。
「いやだって、あいつを使えるように鍛えるのは骨だぜ。時間がかかる。ある程度方針とかよ、やり方とか、なんか考えとかねえとよ」
「そんなもん走ってから考えるショ。田所っちこそ、あの赤頭どうにかできんのかよ」
 巻島はやれやれと天井を見上げて息を吐くと、片手をひょいと振って、机に頬杖をついた。
 本当に走ってみなければわからない。あの、回転数を上げて登る走り。間近で見たらどんな感じなのだろう。
 夏のことを考えるのは時期尚早だったし、過度の期待は禁物だ。それが先走りしそうになる自分の感情への戒めなのだという自覚はあるが、真実でもある。何しろ、まだなにもわからないのだ。
 けれども遅すぎるということもなかった。これから、夏までの一瞬一瞬が、小野田にとっては宝石のように大切な時間になる。それはそのまま、巻島にとっても同様のことなのだ。
(一蓮托生ってやつショ……まったくもって頼りねえが)
「……ま、」
 ペットボトルにさしたストローを口に含み、ちゅう、と吸い込んでひと息つく。
「あいつだって速くなりてえだろうし、やってみればどうにかなるショ」
「どうにかっておまえ、あいつ、ただ一緒に走ってるだけじゃ指導にはなんねえタイプだぞ。勘はにぶそうだし不器用ぽいし」
 巻島は頬杖をついたまま、声の方へじろりと目玉を動かす。
「おまけにあれだろ、先輩とふたりとかいったら萎縮して力を発揮できないタイプだろ。無愛想な面でつっけんどんな態度で接してたら、下手すると全然耳に入らねえってことに」
 金城はロッカーに背中を預け、腕を組んで黙っている。
「余計なお世話ショ。意外とできるかもしんねえショ。だいたいお前ら初めからオレに無理って思ってるショ。失敬っショ!」
「まあまあいいか巻島、オレの言うとおりにしろ。まずは笑え。笑顔だ。笑ってさえいればなんとかなる。あとはこうフレンドリーにだな、軽い会話を……」
 巻島は眉を上げて片目を軽く見開き、田所の延長線上に立つ金城を見やった。一瞬目を丸くし、口角をかすかにあげる。それだけの表情の変化では本音など見えない男だが、この際はいっそわかりやすかった。
「……チッ」
 前髪をくしゃりと掴んでがっくり項垂れた。まったくお見通しというのも腹が立つ。
 自分の雰囲気が親しみやすさと程遠いことは自覚しているし、何もしないで怖がられることだって珍しくない。自覚していればいいというものではないが、性格だ。そして、現時点では小野田との接点はまったく見いだせない。自分の対応如何で小野田が自分の可能性を理解しないまま漫然と自転車に乗り続けてしまうということだってありうる。
 誰よりも不安なのは巻島だった。自分にうまく出来るだろうか。あの初心者をいっぱしの形まで作り上げることが、出来るんだろうか。
 唇を尖らせる巻島の背中を田所がバンとたたいて、ガハハと笑う。苦々しく顔をしかめながら、巻島は大まかなところでは同意するしかない自分の不甲斐なさを呪いつつ、不器用に笑い返した。
「ま、なんとかするショ。あいつを使えるようにすんのはオレの仕事だ。やるだけやってみるサ」
 そう言って、両手を広げて肩をすくめて二人を見返すと、田所はあからさまに疑り深い目をして、大丈夫か、と呟いた。本当に失敬な奴だ、と巻島はさらに笑う。
 けれどそれだけの奴じゃない。おそらくは黙っている金城も。巻島の、震えるような期待と隣り合わせに存在する茫洋とした不安の正体を、わかっている。
(ありがとヨ……)
 思ったが、声には出さなかった。ただ、クハ、と息を吐くように笑い、このおせっかいめと横顔をさらして俯いた。
「だいたいオレの心配よりおめえらはどうなんショ。鳴子にしろ今泉にしろ、口で言っても聞かねえタイプだろ」
「そこはそれだ」
「そうだな」
 わかったようなわからないような答えで頷き返す二人を見てると、こいつらこそ大丈夫だろうかという気持ちがわいてくる。
 楽しみだナ、と背中に暖かな日差しを受けながら、巻島は午後の眠気の訪れに抗うように、二度三度と瞬いた。


 携帯が鳴った。
 部活に向かう前の教室のざわめきの中、巻島はけたたましく鳴り続けるそれをポケットから取り出して、かしゃんと開く。
「よお」
『巻ちゃん?部活中か?』
「いや、まだ。これからショ」
『そうかよかった。週末の待ち合わせのことなんだが……』
 声の主はなめらかに会話をリードしていく。それに相槌をうったり、意見を言ったりしているうちに、大体のことが決まっていく。
(こいつにはオレみてえな悩みは無用ショ)
 その後輩たちは、森さえ眠るなどという―――自分で言っているふしもあるが―――、あの独特の静かな走りを間近で見て、追いつこうとしながら、鍛えられていくのだろう。この男の持つ強引さと不思議な吸引力は、後輩たちの目に、まっすぐに目指すべきものを表してくれるのだろう。
(けどそういうの、オレには無理ショ)
 携帯のむこうから流れるように紡がれる声を聞きながら、巻島はふわりと顔を上げ、窓の外にひろがる青空を見上げた。
 イレギュラーの極みのような自分の走りから後輩が何を掴むかは、まったく予想がつかない。巻島が小野田の走りを見てみなければわからないと思っているのと同様に、巻島の走りを小野田がどう見るかはまったくの未知数で、そこに何が生まれるかも、想像の範囲を超えている。
『……巻ちゃん?聞いてるか?』
「聞いてる」
 当たり前だ。聞いている、さっきからずっと。 通話口から聞こえるこれは、巻島にとって、全部これからだと告げる未来の声だ。
「楽しみにしてるショ」
 弾むこころから生まれる声にまざる喜色は隠せない。
 自分でも初めて聞くような声だった。今はじめて、巻島の胸は希望一色に染まっている。
 とはいえ現状は、黄色のままだった信号が青に変わる可能性がわずかに生まれただけだ。けれど耳に届くこの声が待っているかぎり、巻島はその可能性を信じていられると思った。
 誰にもなにも言わないまま、その瞬間に焦がれ続けるだろう自分を思った。
『オレもだ』
 からりと答えた声は、くっきりと晴れ渡る夏の空の色を思わせた。
 きっといく。必ず。だから待っていろ。

 たとえ、約束がなくとも。
ツイッターの三題噺。黄・宝石・森。
前回書いたのとはたぶん違う診断だと思いますが、そもそも内容的にシチュエーションていうのがむりだなって思いました。
にしても、前回からこんなに時間がたっていたとは。別に続き物のつもりもないんですけど。(12/11/24)
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