before me

 自転車を降りて足がふらつくのは入部後初めてのことで、驚きに目を丸くし、真波は足元を凝視した。 隣の同輩は地面に足をつくとそのままへたり込み、這いつくばって、ぜえぜえと喉を鳴らしている。
「こんなキツイの、はじめてだよな」
「いつもキツいのはキツいけど、今日はありえねえよ」
見れば、自転車の上で突っ伏していたり両手を背後について胸を反らせたり、膝の間に首を入れて項垂れたり、心底へばっている人数が、普段とは比較にならないほど多い。こんな光景を見るのも初めてのことだ。
全国きっての名門である箱根学園の自転車部で高校の三年間を過ごそうというのだから、部員の平均的なレベルは高い。その彼らでさえこうなのだから、今日の練習はやはり本当にキツかったのだ。少しくらい足にきたからって不思議なことなどない。
真波はきりっと顔を上げ、数メートル先に立つまっすぐな背中に視線をとめた。横顔の輪郭に、夕日のオレンジが反射している。ヘルメットを脱ぎ、風にあおられて乱れた毛先に鬱陶しげに手を入れ、ばさりと勢いよく払う。裏門に入ってくる後続を涼しげな顔で確認する眼差しは、普段と比べてどことなくつめたい。
(東堂さん……) 
 箱根学園ばかりでなく、全国高校生のなかでもおそらくトップにいるクライマーだということは、新入生たちも全員理解していた。けれど、今日ほど骨身にしみたことはない。トップにいるということ。その研ぎ澄まされた走りの凄味。すべてが未知の領域のものだった。
 驚きつつも、真波は胸に沁み渡るような感動を覚えていた。はじめてこのものすごいクライマーである先輩の本気の登りを間近で見ることが出来たのだ。事実として捉えなおすと感動はさらに深まった。
(東堂さんて、本当にすごい。さすが、山神って言われるだけのことはあるなあ……)
  真波は辛うじて大きく後れを取らずに走りきったが、どんどん上がっていくスピードについて行けず、チギれてしまったものも少なからずいた。自分のペースに戻ってキツい登りを終えた自転車が、一台また一台と戻ってきている。
校庭のアスファルトにはいくつもの濃い影が長く伸び、冷えたチーズのように不恰好に固まっている。そんな中にひとりすっくと立つ東堂の背中が、夕日の大きさと相まって、いつもよりずっと力強く見えた。


「今日すげえ機嫌悪かっただろ、東堂さん」
「あー、走り出す前、女子の応援に応えるときのテンションがいつもと違うなって思ったんだよなー……もっと早く気づけばよかった」
 そうしたら東堂ではなく別の先輩とメニューをこなすことも出来たのに、と、一つ上の先輩たちが部室で帰り支度をしながら噂しているのを聞きつけ、真波は首をかしげた。
(機嫌が悪い?)
「あれだろ、昨日レースだっただろ。結果聞いたか?」
「聞いてない。けど、今日の様子見たらわかるよなあ……」
 そうだなあ、とまた別の先輩が溜め息をついた。
「昨日のレースがどうかしたんですか?」
 疑問に思って話の輪に加わると、あれ、お前知らないのか、と溜め息をついた先輩が一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに、まあしょうがないだろ一年は、と別の先輩がフォローするように言った。
「東堂さんにはなあ、ライバルがいるんだよ。あのとてつもなく強い山神と僅差で勝ったり負けたりできるすげえやつがな……で、今日の感じたと多分、昨日あったレースで……」
「負けたってことですか?東堂さんが?」
ギリギリくらいつくことは出来たけれど完全に追いつくことは最後まで出来なかった。離されずについて行くのがやっとだった。あの本気の東堂と互角の勝負ができるひとがいるのだ。真波は驚き、一瞬呼吸すら忘れた。背中がじわりと熱く汗ばみ、速まった鼓動を落ち着けるように胸を押さえて、大きく深呼吸した。
東堂らしくなかったといえばそうだ。いつもなら振り返ってなんだかんだと揶揄するような無駄口をたたいて来るのに、そういえばそれすらもなかった。脱落者を他の部員に預けたまま振り返りもせず力任せに登っていく、ああいう姿は初めて見たので、気になってはいたのだ。
 へえーっと声を上げると、なんだなんだと一年の連中が集まってきたが、先輩たちは面倒くさそうに片手を振って、解散と言って彼らを散らした。真波はそれを尻目に、お疲れ様でしたー、と言って、部室を後にした。


 自転車を押しながら正門に向かう途中、体育館の脇を通りがかったとき、ふと耳慣れた話し声が耳に飛び込んできた。
東堂の声なのはすぐに分かった。ほかに声が聞こえないのでひとりごとだろうかと不思議に思い、声のする方へ回り込んでみる。すると、壁を背にしてしゃがみ、俯いた状態で話す東堂の姿が見えた。
耳に携帯をあてている。
(ああ、電話かあ……)
東堂は側溝脇に敷かれた玉砂利をつまんではコロンと放る動作を繰り返しながら、電話のむこうの相手に、なにか訴えているようだった。
「オレが落ち込んでると思っているんだろうがそんなわけないだろう」
「うむ……いや、昨日不覚を取ったのは、巻ちゃんのようすがいつもと違ったからだぞ。なんだかテンションが高かっただろう?……そんなことなくはないぞ!オレにはわかる。何かすごく嬉しいことでもあったのだろうかと思ってな……たとえば、……彼女が出来たとか?……いや、例えばの話だぞ?」
「それはどうだろうな。気にするなという方が無理だぞ。ライバルのことだ、気になるに決まっているじゃないか……うん、うん、………だってオレと巻ちゃんは違うからな。オレは何もしなくてももててしまうからしょうがないが、巻ちゃんがもてる時は絶対になにか確かなきっかけがあるに決まっている。その女子にいったい何をしたんだ巻ちゃん!ハァ!?違う!?何言ってんだはこっちのせりふだぞ巻ちゃん!」
 まきちゃんと呼ばれるなら女の子のような気がするけれど、彼女が出来たとか出来ないとか、なにかおかしい。
(ま、いいか)
 これ以上は本当に盗み聞きになってしまう。そう思って真波が去ろうとしたとき、東堂の声が一瞬強まった。
「次の勝負では必ずオレが勝つぞ。覚悟しておくんだな。彼女にうつつを抜かしているお前など取るに足らんからな」
 東堂がそう言ったむこうで、相手が、たぶん、『彼女じゃねえっつってるショ!』と怒鳴ったのが聞こえた。
「誰だ?」
 後ずさったとき、玉砂利がからんと側溝にいくつか落ちたのを聞きつけた東堂が、通話ボタンを切り、立ち上がって近づいてきた。
「あ、オレです。お疲れさまです」
「真波か。こんなところで何をしている」
「東堂さんの声が聞こえたので、なにかなーって思って。……まだ着替えてなかったんですか?」
 東堂はジャージ姿のままだ。天気のいい昼間は夏のように暑いこともあるが、夕方になれば山は一気に気温が下がり、夜はまだ少し肌寒い。体調管理には人一倍うるさいのに珍しいな、と思う。
「着替えなら今からするところだ。それより、立ち聞きするとはどういうことだ」
「勝手に聞こえてきたんですよ〜。すいません、もう帰ります」
 ぺこんと頭を下げて道に戻ろうと踵を返したところ、背後からおい、と呼び止められた。
「はい?」
「お前、……登りはじめてどれくらいになる」
「はい?……あ、えっとー……」
 指を折って数えていると、ぽん、と肩に手を置かれた。ハッとして目を上げると、東堂は、今日の練習では一度も見せなかった、いつもの自信にあふれた睨むような笑顔を浮かべている。
「もっともっと乗るといい。どんどんまわせ。今日はよくついてきた。いい走りだったぞ」
 東堂はそう言うと、ではな、と片手をあげて、真波の横をすりぬけ、すたすたと歩いていく。
 ぴんと伸ばしたまっすぐな背中。項をかすめて通り過ぎる夕方の風に毛先をふわりとなびかせるその後ろ姿には、颯爽という言葉がいかにも似合った。練習のあとに見たつめたい横顔の面影は微塵もなく、軽やかな足取りを見ていれば、どうやら機嫌は直ったらしい。
 機嫌が悪い東堂というのを、真波は入部してから今まで一度も見たことがなかった。今日だって、言われなければ真波あたりには気づかない程度の変化でしかなく、レベルの高いキツい練習というのが今日のようなものなのであれば、これからもどんどんやってもらいたいと思うくらいだ。
(東堂さんて、よくわかんないけど、もしかしてすごくいい先輩なのかなァ……)
 女子人気がどうのとときどきすごくうるさく言われることもあったが、真波はたいてい聞き流している。先輩たちも同様だ。女の子の人気は本当に高く、一年の中には尊敬のまなざしで見つめているものが実は少なからずいる。
(不思議な人だな……でもクライマーだからなー)
 山が好きという、それだけで、真波には少しだけ身近に感じられる。そういう先輩だった。尊敬とか、お手本とか、そういうのとは少し離れた場所で、他の先輩たちとは少し違う親しみを感じる。
 目の前が静かに翳っていく感じがして、真波は空を仰いだ。日が落ちるまでもう間がない。暗くなればスピードが鈍る。
「いけね、帰らなきゃ!」
 校門へ続く石畳の道へ戻ると、真波はふわりと自転車に跨る。
 黒々とした山の上に、月が出ていた。
無料配布ペーパーに少しだけ加筆修正しました。巻ちゃんのテンションが高かったのは坂道と裏門坂を登った直後だからですよ。(13/8/25)
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