雨の日の

 しゃわしゃわと薄い緑の葉に水が降りかかる音がしている。
 ときどき雫が跳ねてぱらららと枝葉を叩き、ぽたぽたと落ちて黒土の中に染み込んでいく。
 静かな山の中に響くのは、あとは聞きなれたペダルの軋みと、アスファルトを噛む軽い車輪の音だけだ。
 視界には薄い筋肉がなめらかに覆う、細長い背中。
 巻ちゃんが、少し前を、いつものように車体を左右に大きく揺らして登っていく。

 巻ちゃんは雨が好きなのだ。好きなだけでなく、得意でもあるようだ。得意だから好きなのか、好きだから得意なのかはわからない。どちらにしても雨になると、いつも少しだけ分が悪いということに、オレも薄々気付いてはいる。インハイまでに克服しなくてはならない課題だ。もちろんオレには弱点などないのだが、雨が好きかと聞かれて好きだと答えると若干嘘がまじるのだから仕方がない。
 晴天が好きだ。青空と太陽と、白い雲と乾いた風が好きだ。灼けつくような日差しが好きだ。
 
 そんなわけでこの日も頂上に先に着いたのは巻ちゃんだった。ほんのわずかな差ととはいえ、オレとしては面白いわけがない。巻ちゃんとオレの間の勝負はいつも五分で、どっちが勝つかはその時々でいつも変わるのだ。
 巻ちゃんは勝ったくせに、相変わらずたいして嬉しそうでもない顔をしていた。常にハの字に下がる眉はぴくりとも動かないし、頬も緩まないし、
(それにしてもこの顔は読みにくくていかんな)
 口許はどことなく不満気にも見える。額から流れ落ちたしずくがぽたりとぽたりとそこへ落ちかかる。唇は薄くて、でも真ん中はぷくりと膨らんで、濡れているせいか、普段より少し赤みが強い。
「なにヨ」
「む」
 いきなり問われて我に返った。
「なに見てるショ」
 巻ちゃんは愛車にまたがったままま、ガードレール越しに眼下の景色を眺めている。雨はさほど強いわけではないがそれなりに視界は悪く、いつもはよく見える玩具のような街並みは、今はけぶって灰色に染まり、ほとんど形がわからない。
「なにって巻ちゃんさ。相変わらず顔に出ないのはなんでだろうなあと思っていたところだ」
「オレの顔なんかどうでもいいッショ」
 ため息混じりに、面倒くさそうな声で言うのへ、オレは声を重ねた。
「よくはないよ。山の上で巻ちゃんの顔を眺めるのはオレの当然の権利だからな」
 切れ長の目を疎ましげに細めて、巻ちゃんはいつもの、呆れたような顔つきだ。だがオレは知っている。確かに面倒くさげで嫌そうに見えるが、そういう顔で、了承しているのだ。これが巻ちゃんなのだ。
「巻ちゃんはオレの美形顔を眺めたくなるときはないのか?たまにしか会えんのだ。いくらでも、見たいだけ見て構わんよ」
「ヤローの顔なんてどうでもいいショ」
「よくはないぞ!少なくともオレは巻ちゃんの顔を見るのが楽しい」
 ぱしゃぱしゃと、細い雨音がしんとした空気の中、変わらぬリズムで聞こえている。オレと巻ちゃんの髪や肩を柔らかくたたいて、濡らす。巻ちゃんはオレの言葉など聞こえていないかのように、また灰色の町に視線を戻して、額にはりつく前髪を大きくかきあげた。
 体格のわりに細い肩が、だらんと下がる。
「もう1本行くっショ」
「ん?もうやるのか?」
「当然ショ。そのためにわざわざ出かけてきてやってんだからヨ」
 今日は巻ちゃんが神奈川まで輪行してきた。二年の初めに出会って、少しして携帯を教えあってからは、月に一度か二度、こうして一緒に山を登る。今日みたいに巻ちゃんが来たり、オレが千葉まで行ったり、真ん中あたりで落ちあったり、いろいろだ。その時登りたいと思った山を、ふたりで登る。
 ふたりだけで。
「そうだったな」
 だいぶ降りが強くなってきているけれど、そんなこと気にはしない。このまま道なりにまっすぐ向こうへ下って、Uターンして戻る。そのまま山を下りて、それでこの時間は終わる。
 巻ちゃんが頷く。
 オレはペダルを軽く踏んだ。オレのリドレーが、音もなくするりと、前に進む。
「次はやらせんよ」
 いいざま、巻ちゃんの横をすりぬける。かすかに、汗と雨がまざった、水の匂い。巻ちゃんの匂いだ。
「クハ……今日は負ける気がしねえよ」
 雨が好きだというだけでそれはない。
「それはないよ巻ちゃん!させんよ!」
 前言は撤回しよう。オレは意外と、雨が好きかもしれないよ、巻ちゃん。
 雨の日には少しいつもと違う巻ちゃんを眺めているのが、なんだかどうも、楽しいようだ。
 これは一体なんなんだ。チームメイトにはこんなふうな気持ちには、なったことがないぞ。
 巻ちゃんの背中を眺めながら登ること。追い抜くこと。巻ちゃんがオレを、追いかけること。そのどれもが、体の底が震えるくらい、楽しくてならんのだ。巻ちゃん、……巻ちゃん。なんでだろうなこれは。巻ちゃん。
 だから次はきっと、オレが前を走ってみせよう。そうしてお前に背中を見せながら、お前が雨の中を走る俺をどう思うのか、それを想像するとしよう。
 きっとオレと、あまり違わないはずだ。そんな気がするな。
 何しろオレは美形な上に山神なのだからな。
(10/8/7)
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