二十分前

 汗だくになって走り回って、ようやく見つけた彼は、パイプ椅子よりも少しだけ上等なものを五つほど並べて、その上に横になって目を閉じていた。
 きれいに整えた長い玉虫色の髪が広がって、椅子の端からさらりとなだれ落ちている。
 正面に開けた大きな窓から太陽の光を受けて宝石のようにきらめくコバルトの海が一望できる小部屋だった。東堂はその見事な光景に息をのんだ。真っ青な空は海の彼方までをじゅうぶんに包み込んで、どこまでも深い。
 横たわる巻島の姿に再び目をやった。白いシルクのスーツに、紫がかった光沢のあるカマーバンド。襟や袖口などところどころにゴールドをあしらってあるのは巻島の好みによるものだ。東堂は相好を崩して悦にいる。緑の髪にはよく映えるだろうと予想していた衣装は、思った通りとてもよく似合っている。
(だが巻ちゃん、そんな無造作に横たわっていてはせっかくの衣装が皺になってしまうぞ)
 東堂は頭の上側に回り込む。そして、少しだけ空いたスペースに尻をひっかけて腰を落ち着けるとそっと胸の内で問いかけた。指を差し入れてやわらかな髪をそっとすく。神経質なようでいてところどころ大雑把な巻島の、こういった不用意な部分に、時々ぎゅっと胸を掴まれる。気を抜いた瞬間に不意打ちをくらうようなものだからダメージが深い。そして、どうしてもかなわないと思わされる。
 髪を繰り返しすいて、それから、薄くて形のきれいな耳にそっとかけてみる。
 こうして巻島に触れながら海を眺めていると、部屋の外で繰り広げられている喧噪が遠くなって、目の前にある空と海のきらめきと芝生の緑の輝き以外すべて頭の中から消え去って、二人きりでぼんやりと過ごしているような気がしてくる。そんな幸せな錯覚を呼び起こす光景だ。
 けれど、あと二時間もすれば結婚式は終わっているはずだし、明日、招待客が帰ってしまえば一日二人で過ごせるはずなので、まるきり夢というわけでもない。
「とうど……?」
「起きたか、巻ちゃん。どこへ行ったかと探したぞ。みんなはまだ探しているかもしれん」
「おめえがここにいるってことは、ちゃんと案内してもらえたんショ?」
 巻島は上向いたまま片腕で目を覆い、長いため息をつく。
「うむ。……ちょっと驚いたがな。寝ていたのか?」
「ショ。ちょっと昨日、あんまり寝てなくてヨ。昼寝できるとこないかって聞いて、ここを教えてもらったんショ」
 結婚式直前の花嫁がひとりになりたくなったときのための、秘密の控え室だと教わった。花嫁がこの場所を使うことを希望した場合は、両親にすら居場所を明かされないのだという。
「静かにひとりになりたいときに使うんだって。短い時間だけな」
 だから、頃合いを見計らってお付きのおばさんが呼びに来るショ、と巻島は気楽そうに言って、笑った。
 巻島を探してここに案内されながら、東堂も同じ内容のことを聞かされていた。故に巻島がそっと姿を隠したのは多少ナイーブな理由を伴ってのものなのではと不安が胸をかすめたが、顔を見れば、昼寝と言って笑っている。これを鵜呑みにして、安心してもいいものだろうか。
「一緒にしたら悪いけどヨ、まァ花嫁さんてのは、いろいろと大変なものなんショ」
 捨てるもんとか、あきらめるもんとか。男にもあるけど、それとはちょっと意味合いが違いそうだもんなあ。
 落ち着かない東堂のかたわらで、巻島は他人事のようにのんきな声で言う。
 巻島がいない、と最初に騒ぎだしたのは総北高校の後輩たちだった。
 巻島さん逃げたんとちゃいますか、と赤い髪の彼の後輩が言うのに、そんなはずがあるかと余裕の顔で笑ってみせたものの、東堂の心中は穏やかではなかった。
 迎えに行ってこようと大見得を切ったはいいが、巻島は控え室にも心当たりのどこにもおらず、さすがに不安になった東堂にこの場所をそっと教えてくれたのが巻島の言うところの「お付きのおばさん」であり、客室係のとりまとめをしている、この道三十年というベテラン従業員だった。
「いいなここ。なんか、落ち着く。よく眠れたんじゃないか?」
「三十分くらいだけど、すっきりしたショ」
「はじめから誘ってくれればよかったのに。オレも昼寝がしたかった」
「ああ、たしかになあ……誘えばよかったか」
 本気で悔やんでいるようなのが見て取れて、東堂はへなりと笑った。
 巻島はなんショ、と言いつつ横たわったまま東堂の顔を見上げている。指を伸ばしてきて、くい、といたずらに前髪を引っ張る。痛いぞと言うとニヤリと笑って、眩しげに目を細めた。
「タキシード、似合ってるっショ。オールバックも。思ったとおりだったな」
 東堂が着ているのはシックな黒一色のものだ。胸には白と青でデザインされたブートニアが飾られている。
「惚れ直したか」
「あー……クハハ……格好いいショ」
 くすぐったそうに笑うその頬が、ほんのり赤い。
―――― 新郎様が探していたらお連れするようにと承っておりますよ。
 口元の薄笑みを指先で隠して歩みを促しながら告げられたこの言葉に、どれほどホッとしたことか。
 巻島から、彼のうちのある部分をすっかり明け渡されていることなど、日頃の言動で理解していたつもりだった東堂だが、この時のこの瞬間、このタイミングというのにはさすがに胸を衝かれた。一瞬のうちにきわまる感情に、頭の中が痺れてくらくらした。
 海の光を浴びて目を閉じていた巻島を見つけたとき、東堂はそっと誓ったのだ。
 この宝物を、かならず幸せにしなければならないと。
 ずっとそばにいて、守っていきたいと。
 それこそ花嫁にむけるような、男女の間のごく普通の結婚における誓いと似たようなものであれば、あえて言葉に出して伝えるつもりはなかったが、偽りのない本心だ。
「巻ちゃん」
「んー」
「幸せになろうな」
「……あたりまえショ」
 巻島はちょっとムッとする。本気なのが透けて見えるのがなんともかわいい気がして、口許がムズムズする。
「オレはずっと、おまえのそばにいるぞ。死ぬまでだ」
 少し笑いながら言う東堂を、巻島はしばらくの間不思議そうな顔で見上げていたが、やがてふっと表情を緩めて目を閉じた。
「んじゃ、せいぜい長生きしろショ」
「長生きしような、だろ」
「クハハ」
 オレにはおまえがいて、おまえにはオレがいる。全部分けあって、全部二倍にする。心強さも日だまりのようなやさしさも、悲しみも憤りも、全部。
 今この、狭いスペースに二人きりで海を見ているように、世界のすべてに、二人きりで向き合っていく。
 昨夜眠れなかったのは、東堂も同じだ。
 いとしさが急激に胸を衝き上げ、抱きしめてキスをしたくなった。巻島はゆっくりと瞬きながら、横向きで海を眺めている。そこへ斜めから顔を近づけると、手のひらでぺたりと封じられた。
「式まで我慢しろショ」
「えー」
 頬を膨らませて不満を訴えると、巻島は、しょーがねえなあ、と言って中途半端に体を起こし、ちゅっと頬に吸い付いた。こんなかわいいことをするからにはやはり彼も浮かれているらしい。東堂は笑って、おなじようにに頬にキスを送る。
 唇をくっつけたまま囁く。
「あのな、巻ちゃん」
「なんショ」
「じゅうぶん甘やかされているのはわかるんだが、オレとしてはやはり、最後のキスをしておきたい」
「最後?」
 ピクリと眉を上げる。
「恋人として、最後の」
 巻島は呆気にとられた顔で東堂を見上げ、鼻の下をするりとこすった。
 そうして、
「なるほど、花嫁が隠れたくなる気持ちもがなんとなく分かるショ。どいつもこいつも浮かれきっててどうしようもねえ」
 と聞き捨てならない言葉をぼそりと吐き出すと、東堂の後頭部をふんわりとてのひらで包み、ぐいっと引き寄せた。
 結局勝手に消えた理由はそれなんじゃないか、と抗議の言葉を頭に浮かべながら、東堂は甘く絡みつく巻島の舌を存分に味わった。
 控えめなノックの音が、遠くかすかに聞こえていた。
東巻プチオンリーペーパーラリー用。改訂版。(14/5/4)
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