夏の後 春の前
(2015.8.15)



(一)



 東堂がそのことについて深く考えるようになったのは、彼が海の彼方へと旅立って、すこし時間がたってからのことだった。
 そのこととは、結局のところ、彼――巻島裕介が自分にとってどういう存在なのかということだったが、それは考えるまでもなく出会ってから一貫していた。
巻島はライバルだ。東堂にとって、彼がそれ以外の存在だったことは一度もない。
だが、はたして本当にそうだったのだろうか。
違和感はゆるやかに育った。練習の前後。夕食前のぽかりと空いた時間。風呂あがり。談話室の喧騒の中。部屋に戻って、眠りにつくまで。日常の流れのなかに、それは小さな落とし穴のような顔をしてひそんでいた。
東堂は気づくと足を止め、周囲を見渡して、そこから見えるものと見えないものについて考える。そしてそのたびに、この手の中にあるものが失ったひとつの動作を見出すのだった。
調子はどうだ。風邪をひいていないか。怪我などしていないか。食事はしっかりとったか。よく眠れているか。
この、あいた穴の正体だ。うすうす気づいてはいた事実についてようやくそう認めたとき、東堂は、彼と出会う以前にはその時間をどのように過ごしていたのか、思い出そうとした。
そして、唖然となった。まったく何も、思い出せなかったからだ。
「変だろう?」
「何が?」
「オレが」
「うん? まあ、変と言えば変かな」
「どこがだ?」
「どこ? 難しいな……でもまあ、変と言えばなんだって、誰だって変なものなんじゃないか?」
新開は肩をすくめて唇の両端をきゅっと引き上げて、それだけ言うと黙ってしまった。
今日は談話室だ。東堂はいつもの落とし穴につかまっていた。消灯が近づいていて、福富は部屋に戻っていった。荒北はこのところ食事と風呂以外は図書館や自室に籠っていることが多い。後輩たちも三々五々部屋へと戻っていき、新開と東堂を取り巻く人影は、いつしか消えていた。
九月に入って、山の夜はもうずいぶん涼しい。さらりと肌に心地よい空気は秋の訪れとともに、夏の終わりを感じさせる。何かを目指して一心不乱にペダルを回す季節が終わったということだ。限界まで追い込むことも、いまはない。落とし穴の存在に気づいてしまったのはそのせいだ。
「つまり、寂しいんだろう?」
 笑い含みにそう言われて、東堂は眉を顰める。
「何がだ」
「おめさんだよ。裕介くんと、走れなくなってさ」
 新開は手元の文庫本をそっと閉じてテーブルに置いた。
「ずっと続けてきた習慣が途切れて、ぽっかり空いた時間を持て余してる、ってとこかな。単純に会いたいとか声が聞きたいってわけでもないんなら」
東堂は眉根を寄せ、むっつりと黙ったまま、その言葉を受け止める。反論したい気持ちはあったがムキになるほどのことでもない。吟味して、ひとつだけ反論することにする。
「寂しい、というのはないな」
「そうか?」
「巻島と走る機会がなくなったのは確かに痛いし、損失ではあるが、夏のあの勝負で結果が出て、一応、全部終わったのだからな。もしあいつが日本に残っていても回数は減っていただろう。前々からわかっていたことだし、さすがにそれを寂しがるようなことはないよ」
当然、体調を気遣って電話する回数だって減っていたはずだ。この空白は、巻島の渡英によるものではなく、生じるべくして生じたものだ。積み重ねてきたものを一気に放出するレースを終えれば、遅かれ早かれこうなっていたはずだ。
「続けたいと思っていたわけじゃないのか?」
「続けたいというか……まあ、会える距離にいれば誘うだろうが、そうでない以上どうにもならんだろう? おまえたちの目から見れば不自然なのかもしれんが、オレと巻島はこの一年あまり、言葉にせずともずっとあの日の勝負を目標にしてきた。それが終わったのだからこんなものだろう。ただ期間が長かったからな。なかなか感覚が戻らんだけだ」
 言葉にしてみて、なるほど、と東堂は思った。ようするにこれは、本来のペースを取り戻すまでの、一時的な違和感なのだ。
「日常の感覚、か……。うん。なるほどな」
 新開はぽつりと呟くと、うーんと唸りながら大きく伸びをしてゆっくり立ち上がった。
「ぼちぼち戻るよ。まだ起きてるのか?」
 東堂はその姿を見上げてかすかに笑いかけると、いや、寝るよ、と答える。
「変か変じゃないかで言えばな、尽八」
 新開が一度言葉を切ったのは東堂の視線がどこを見るでもなく宙をさまよっていたからだ。東堂は瞬いて新開を見る。小首をかしげて、なんだ、と問う。
「変だな。すごく変だ。電話したいならすればいいのに、おめさん、なんだかんだ言い訳しながら我慢してるみたいに見えるぜ」
 人差し指を伸ばして東堂の眉間を狙うようなしぐさを見せると、新開は、暇ならこれでも読めよ、と先ほど読み終えたらしい文庫本を東堂の前に滑らせた。
「暇つぶしにはなるんじゃないか?」
 タイトルには見覚えがあった。本屋に行けばたびたびコーナーが設けられているのを見かけるような、著名な推理作家のものだ。
「……うむ。読んでみるかな。面白かったか?」
「まあまあかな」
「まあまあか」
 クスリと笑って、椅子を引くと本を手に立ち上がった。新開は小さく肩をすくめると、いやあ、と笑った。東堂は新開の固く引き締まった背中をぽんと一つ叩いて、隣に並んだ。
 談話室は、いつの間にか二人きりになっていた。振り返って周囲を確認すると、消灯のスイッチを押した。
(一) 



「尽八、お客様のお見送りをお願い」
 女将の声に、東堂は帳場での仕事の手を休めて顔を上げ、はい、と答える。
 正面玄関を出ると、庭木の枝葉は粉をまぶしたように白くなっていた。見上げた空は深々とした霧と雲に覆われている。
 離れから続く小道を、傘をさして歩いてきたのは、五十代半ばほどの夫婦の二人連れだった。東堂は下駄履きで前に進み出て、下の駐車場へと降りる外階段の手前で彼らを待った。
「雪になってしまいましたね」
 そう声をかけると、夫妻はゆっくりと傘を斜めに倒して東堂を見た。夫の方がちらりと空を見て肩をすくめる。
「ですがまあ、そうひどい降りにはならないでしょう。雪の箱根に出会えるなんてラッキーだ」
「東堂庵をご利用くださってありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
「こちらこそお世話になりましてどうもありがとう。ひょっとして、こちらの若旦那さんかしら?」
 上品な奥方が、傘の下で小首をかしげて見せる。東堂の母親よりも少し年輩の女性だ。東堂は目許をほんのりとやわらげ、いえ、と答える。
「ただの息子です。アルバイトでこき使われているんですよ」
 夫妻はにこやかに笑って、冬休みですものね、と顔を見合わせる。
頑張ってね、と手を振る奥方に手を振り返し、車が前の道を下りにむかって左折するのを見送って、東堂は中へと戻った。
 冬休みに入ってからはずっと、東堂庵でバイトの日々だ。新学期が始まればすぐに三年生は自由登校となるので、そうしたら毎日働くことになる。働けるだけ働いて、旅費を稼がなくてはならない。
 航空券の購入は親に頼ったのでその返済もしなくてはならないし、あちらでの滞在にどれくらい必要なのかもよくわからない。いくらあったっていいように思うので、可能な限り働くと決めていた。高校生で、しかも自由登校の身でアルバイトが出来るのだから、まあ有難いことではある。
「本っ当にこき使われているがな!」
 再び帳場に戻って、年賀状のあて名書きの続きをしなければ。もうそろそろ終わりそうだが、そのあとは厨房で賄いづくりの手伝いだ。仕事は山のようにあった。
「あなたが働きたいと言うから、この冬は臨時をひとり雇うのをやめたのよ。そのぶんはきっちり埋めてもらいますからね」
 女将が恩着せがましく言うのにはハイハイと返事をし、帳場で筆ペンを滑らせる。おかげで東堂はクリスマスも正月もない冬を過ごしている。高校生活最後の冬だと言うのに何とも味気ないが、これもロンドン行きのためだと諦めた。
 週に一度は登校するようにしているので、寮には一応、荷物を置いてある。荒北は現在センター試験に向けて猛勉強の真っ最中だが、福富と新開はのんびりと過ごしているらしく、練習がてら寄っていくこともある。
「バイトはいつまでやるんだ?」
「うむ、一月いっぱいとは伝えてある。そのあとも手が足りないときには手伝う予定だ。卒業後の準備もしなければならんし、そうそう遊ぶことばかり考えているわけにもな」
「そっか」
 昼食をとると、そのまま二時間の休憩時間だ。それを見計らってやってきた新開と福富を、裏手にある自宅の自室へと案内した。
 巻島と初めてスカイプで話した翌日、東堂は両親に、進学はしない旨をあらためて伝えた。時期的なこともあって、だいたい予想はしていただろうが、父親はショックを受けていたようだ。無理もない。家業を継がないと伝えたも同然だった。
 実業団でやっていくと、顧問と担任に伝えたのはその翌日だ。二人にはようやくかと呆れ顔で言われたが、各チームとの折衝を請け負ってくれた。
「ロンドン行きの話は、裕介くんとの間で進んでるのか?」
「まだ全然だ。この前は年が明ける直前の深夜にスカイプの約束をしていたのだが……」



『忙しいからあとにするっショ。たぶん今日はずっと起きてるから、お前が起きたら話しかけろ』
 この日が三度目のスカイプだったが、打ち合わせた時間に通話のボタンを押したら、そう言われてしまった。忙しいのは仕方がないので東堂は了承した。
「いいけど、十時くらいになるぞ。客人に朝食を出さねばならんのでな」
『それでいいショ。起きてっから。じゃあな』
 背後では人の声がしていた。巻島は兄と二人暮らしなので、その友人などが集まっているのかもしれない。なにしろデザイナーだと聞いている。東堂には想像もつかないような華やいだ世界に属する賑やかな人間たちが、今の巻島の周りにはきっとたくさんいるのだろう。今日は自宅でパーティーでも開くのだろうか。巻島はそういった人々の中でどんなふうに振る舞って、何を話すのだろう。あの巻島が。想像もつかない。
 年が明け、家族と朝の挨拶と新年の挨拶を同時に交わし、東堂は旅館の慌ただしい朝の仕事へとむかった。正月も何もあったものではないが、生まれたときからこの家はこうなので、東堂にはごくあたりまえの風景だ。仕事へ向かう父母に姉とふたりで加わってゆけることには、なんとなく面映ゆいような気持ちもある。必要に駆られてはじめたアルバイトではあったが、この時期にこうした時間を持てたのは良かったのかもしれない。
 朝の仕事が一段落したところで、東堂は自室に戻ってきた。時計の針は九時五十分ををさしている。イギリスは今、深夜一時前というところだ。
 ファンヒーターのスイッチを入れてしばらくすると、窓ガラスが曇りはじめる。東堂は台所で淹れてきたコーヒーを啜りながら、パソコンの電源を入れた。
 今使っているパソコンは、父親から譲り受けたものだ。型落ちのノートパソコンだが、立ち上がるのに少々時間がかかるくらいで、ネットを使うだけなら不足はない。
 巻島にはまだ進路の話はしていない。
 前回の通話で、聞きたそうにしている気配を感じたが、まだはっきりと決まっていなかったので気づかぬふりを通した。巻島だって黙っていたのだからお互い様だ。黙っていようと思っているわけではないので聞かれれば答えるつもりでいるが、前述の理由もあって、巻島が聞いてくるかどうかは半々といったところだろう。
 通話ボタンを押して待っていると、しばらくして巻島の声が聞こえた。
『ハッピーニューイヤーーーーとおどお!』
 かつてないテンションで話しかけられて、一瞬ポカンとなった。巻島はあきらかに酒に酔っていて、東堂、東堂、と何度も繰り返している。
「あけましておめでとう、巻ちゃん」
『ショオ!』
「ワハハ。楽しくやっているようだな!」
『あ? あーー、うるせえ、○×△○■、○△××○! 今喋ってるっショ! 悪ィ、なに?』
「いや、……ところで酔ってるな」
『そうでもねえショ』
 ごそごそと籠った音が聞こえて、巻島がデスクに腰を落ち着けたのがわかる。
『あーーー、あけましておめでと』
「うむ。盛り上がっているとこ悪いな」
『あー、もうあいつらはほっときゃいいっショ』
 ずるずる、と衣服の擦れる音がして、眠る寸前のような掠れ声で、すげー飲まされた、と呟く。
「お兄さんは?」
『いるショ。兄貴にもうやめとけって言われたんショ』
「それはよかった」
『そっちは静かショ』
「正月だからな、こんなものだろう」
『日本の正月って静かだよなァ。お雑煮食べたいショ』
「ないのか?」
『作ればあるけど』
 作る気しねえ、ていうか作ったことねえし、と巻島は唸るように言う。東堂は、長話は無理そうだな、と判断する。仕事があるので、東堂のほうも時間が多くとれるわけではない。
「そうか。ではオレが三月に作ってやろう」
『お、まじで? 旅館仕込みショ?』
「べつに仕込まれてはおらんが」
『そういえば、三月で思い出したけど』
「うむ」
「前言ってたあれ……つきあうことにしたショ」
「いつ!?」
『ついさっき』
 押し切られたか。東堂はなんとなく脱力して、背凭れにぐったりと背中を押し当てる。
 巻島は押しに弱い。ぐいぐい迫る相手にたいして強く出られない。女性ならばなおさらだ。思えば高二の夏に携帯電話の番号を交換した時もそうだった。個人練習の必要を説く東堂をうざったそうに一瞥して自分の携帯を投げ渡してきた、あのときの顔が脳裏に浮かんだ。
『おめえが来るときにはとっくフラれてっかもしれねえから、まあ気にすんなショ』
「ワッハッハ、何を言うんだ巻ちゃん。今からそんなことでどうする! 正月早々めでたい話じゃないか」