きみを愛せる時間
(2015.10.4)



1.



 携帯を耳にあてて部屋の中をウロウロと歩き回りながら、巻島は珍しく声を荒げている。電話の相手は彼の父親だ。珍しい。東堂はソファの肘掛けにもたれて頬杖をつき、うろつく巻島を眺めつつ思う。メールのやり取りはときどきあるが通話は滅多にないのにと巻島本人も驚いていたくらいだ。
 通話をはじめてまだ三分ほどだが、東堂が見るかぎり、巻島の劣勢はあきらかだった。背中が丸まって右手は落ち着きなく動きっぱなしで、おまけにずいぶんと早口だ。内容については知る由もないが、見たところ何やら面倒な頼み事をされているようだ。
 押しに弱い巻島のことだから、身内の頼みとあっては、押し切られるのは目に見えている。巻島の身内は、彼に出来ないことをやれと強制することは、絶対にないからだ。
「お父上、なんだって?」
 がりがりと頭をかき回しながら隣に腰を下ろした巻島に問いかけると、巻島はポカンと口をあけて一度東堂を見て、それから、うう、と頼りなげなうめき声を漏らした。
「やりたくねえって一回は断ってんのにヨォ」
 前かがみになって項垂れると、肩よりも少し長めに保たれた玉虫色の髪がさらりと前に流れる。漏らされた小さなため息を聞いて、東堂は、どうやら不本意ながらも了承したらしいことを察した。
「何をだ」
 いくぶん笑いを含みつつ訊ねる。巻島は勿体つけるように前髪をかきあげ、もう一度ため息を吐いた。頬に流れる髪も憂いを含んだまなざしもたっぷりとした吐息も、それぞれが東堂の劣情を煽る巻島の魅力の一部だったが、揃って繰り出されれば斟酌する心持も生じる。
「十月の第一日曜に、パリで、凱旋門賞つーのがあるんショ」
 凱旋門賞、と東堂は口中で唱える。聞いたことはあるような気がするが、正確にはわからない。
「なんの賞だ?」
「賞……まァ、レースショ、馬の。フランスっつーかヨーロッパつーか、……世界でも最高峰のレースのひとつだ。プリ・ドゥ・ラルク・ドゥ・トリオンフ。これなら聞いたことあるか?」
「ある気がする」
 東堂はフランスに暮らしはじめてもう七年だ。チームメイトも含めて、これまでに出会った人々のなかに競馬好きはもちろんいたし、近所にはPMUになっているカフェがあって、意識して眺めたことこそないが、レースの日には新聞を手にした人々が屯しているのを見かける。
「それに、今年も日本の馬が一頭出走するんだと」
「……うむ。それが巻ちゃんに何か関係があるのか?」
「全然ねえな」
 東堂は首を捻る。出会ってから随分年月がたったが、巻島が競馬に明るいという話は聞いたことがない。これまで一緒にいて、話題にのぼったこともなかった。
「ねえんだけど、いろいろしがらみがあってなァ……この話したことなかったっけ」
「どの話だ」
 巻島は口元のほくろの上を指先でひっかいて、あー、と気まずそうに唸ると、ぼそぼそと、自分と競馬との関わりについて説明をはじめた。



 巻島の父親は、巻島が生まれた頃にはすでに馬主だった。彼は、巻島が一歳の誕生日を迎えるその年の春に生まれた一頭の牡馬に、彼と同じ名前を与えた。冠号はマキシマム。ユウスケマキシマムというのが、その馬の名前だ。
 二歳の夏にデビューしたユウスケマキシマムは順調に勝ち星を積み上げ、三歳クラシックに駒を進めた。そして春の皐月賞、ダービー、秋の菊花賞という、牡馬クラシック三冠のすべてに勝利した。日本競馬史上五頭目の三冠馬となった彼は、余勢を駆って年末の有馬記念にも勝利し、四冠馬と讃えられるに至った。
 彼は翌年も怪我なく順調に走り、秋には欧州への遠征を敢行した。当時は挑戦するものも稀だった凱旋門賞に果敢に挑み、結果二着に敗れはしたものの、彼の名と姿は、ヨーロッパの競馬関係者に深い印象を残した。
 彼はその後、六歳の冬まで古馬のトップに君臨した。春の天皇賞は二着に敗れたが秋の天皇賞を勝ち、ジャパンカップで二着した後、引退レースとなった三度目の有馬記念で再び優勝した。GTレース九勝。生涯獲得総賞金額はその時点での歴代トップとなった。
引退後は種牡馬として元気に働き、四年前に亡くなった。どこかのクライマーではないが、森が眠りにつくような大往生だったという。
 巻島は彼の訃報をイギリスで聞いた。ロードレースでやれるだけやっていこうと決めた頃だった。日本に残してきた片割れが最後の弱気を断ち切ってくれたかのような、不思議な感覚を味わったことを覚えている。
 ユウスケマキシマムの活躍は今も人々の記憶に刻まれている。後継種牡馬を三頭輩出して血を繋げているだけでなく、ブルードメアサイアーとしての評価も高い。いわゆるクラシック血統で距離をこなす産駒が多く、子供たちは、直線で空気を押し開いてまっすぐに突き進む、重厚で豊かなスピードを生み出す彼の脚を、さらには鷹揚で暢気な彼の気質をよく受け継いでいる。しばらくの間は日本で走るサラブレッドたちの血統欄を賑わせてくれることだろう。
 今年の春、ユウスケマキシマムの遺した最後の世代の産駒がクラシックを勝った。その牝馬は、桜花賞こそ二着に敗れたものの、オークスを勝ち、樫の女王として三歳牝馬の頂点に立った。競馬ファンたちは、彼女の父の名前とともに、その活躍を思い出した。ほっそりとした美しい鹿毛馬のむこうに彼の面影を見出し、彼の速さと強さについて懐かしく語り合った。
巻島裕介という名前がスポーツ新聞の裏面トップを飾ったのは、死亡のニュース以来久しぶりにユウスケマキシマムの名が紙面に刻まれた、そのひと月半後のことだった。ツール・ド・ フランスの山岳で、日本人史上三人目となるステージ優勝を決めたというのが、その内容だった。
 普段、競馬面ばかりを見ている競馬ファンたちの、その名前への反応は鋭かった。オークス馬を出したことでその名を思い出した者が多かったこともあるだろうが、そもそも、ユウスケマキシマムの名がオーナーの息子に由来するということ自体、競馬ファンの間では有名な話だったからだ。古い競馬ファンたちは、巻島裕介の名を、全く別のところで二十年以上前から知っていたというわけなのだった。
「初耳だな」
「わざわざ言うことでもねえし、競馬好きな奴なら知り合った時点で大抵向こうから言ってくる。そんくらい、ゆーめい」
 うんざりした顔で言うからには迷惑がっているのかと思えば、そういうことでもないらしい。ユウスケマキシマムを語る巻島の口許も目許も、やんわりと笑んでいる。どこか悲しげでやわらかなその笑みは、なぜか東堂に夕暮れの夏草の匂いを想起させた。涙が出るほど懐かしい、子供時代の一日の終わりの風景を眺めるようなまなざし。
 父親の持ち馬とその息子の間にいったいどのような交流がうまれるものなのか、東堂には想像もつかなかったが、巻島からユウスケマキシマムにむけては確かに何かの感情が存在していて、それは彼に、こういう顔をさせるものなのだ。
「ふうん。巻ちゃんがそんなに動物好きとは知らなかった」
「はァ? ふつうっショ」
「それで? それと父上の電話と、いったいなんの関係があるんだ?」
 巻島の心の中をしめるもののことを思うと、東堂はどこまでも狭量になれる。巻島は心得ているし、東堂もそれ以上を要求することはなく、これで喧嘩になることはなかったが、いまは事情が違っている。主に東堂の置かれた状況のせいなのだったが、感情をあらわにするときには、普段よりも少しだけ慎重になる。
 巻島は苦々しく顔を顰めて、ソファの背凭れに首をのせて天井を見上げた。両足を前に投げ出し、肘掛けにだらりと腕を垂らして、喉の奥で転がすような低い声で言う。
「テレビに出ろって言うんショ」
「テレビ?」
「おう。競馬のナ。凱旋門賞の中継をやる民放が現地ゲストに呼んでくれるんだと。余計なお世話っショ」
 一度エージェントを通して依頼があったが断ったのだと、巻島は言った。
「身内使うのは卑怯っショ。オヤジのやつ、完全に面白がってやがる」
「……それはどうだろうな」
 東堂が言うと、巻島はますます不機嫌そうに渋面をつくる。
 巻島がテレビに出るのだ。自転車のレースでも、アスリートの特集番組でもなく、全く畑違いの分野で。
「父上は単純に、見たかっただけなのじゃないか?」
「は? どういうことショ」
「だって、オレも見たいぞ。巻ちゃんがテレビに出て喋っているところ。ツールのステージ優勝がきっかけになっていることは間違いないし、そのへんも多少は喋る機会があるのだろ?」
「どうだろうなァ……、きっかけはそうだろうが、番組見てんのは競馬ファンくらいなんだし、どっちかっつーとユウスケマキシマムだろ。なんか思い出話でも引き出そうってハラなんじゃねえの。あいつも走ってるしな、凱旋門賞。フランスに来たのはあの時が初めてだったショ」
 広々とした芝生の緑と広い空。薄黄緑の木立が続く森の中を車で走り抜けた先に、その競馬場はあった。背の高い、目や髪の色の異なる大人たちの間を、母親に手を引かれて歩いた。巻島は、まだ五歳だった。
「あんまりよく覚えてねえけどな……。まァ、オヤジに関しては多分おめえの言うとおりっショ。ほかに芸能人なんかも出る予定らしくて、母親と妹が勝手にテンションあげてる」
「おまけに司会はグラビアもこなしていたタレントじゃないか。なんで最初は断ったんだ?」
 手にしたスマートフォンで番組名を検索し、出演者をチェックしながら東堂が言うと、巻島は下唇を突き出して不機嫌そうな顔を作って、
「そこはギリギリ迷ったところっショ」
 と本音を吐いた。
 東堂は体を下へずらして半分横たえると、巻島に後ろを向かせた。顔の前に尻を突き出す格好になるので巻島は嫌がったが、舐めて、とひとこと言ったら、溜息まじりに応じた。このあたりの巻島の境界線はどのあたりにあるのかが、東堂には未だに良くわからない。
 巻島は東堂の中心に顔をうずめ、取り出した東堂のものを最初は手で、それから舌を使って、形を確かめるように触れ始めた。まるで遊具を扱う幼児のような弄び方だ。見慣れているはずなのに何が楽しいのか、笑いまじりのため息が直接かかってくすぐったい。
 東堂は速まりはじめた鼓動を落ち着けるように大きく深呼吸し、巻島の割れ目に指を入れた。左右に開いて中に入れ、愛撫を再開する。ぐっと突き入れると、巻島は一度尻を持ち上げて反応したが、そのあとは黙って東堂の指を受け入れている。
 そうしてしばらくは無心に、お互いの荒い息遣いだけを聞きながら、自分の快楽のために相手の準備をととのえる行為に耽った。
 肘を落とし、小刻みに体を震わせながら小さく呻き、東堂の性器を口からこぼした巻島の体に手を回して抱きかかえると、東堂は背中で這い上がるようにして体を起こした。
「巻ちゃん」
 左腕で腹を抱えて、最後とばかりに前立腺を刺激して、突き込んだ右手を小刻みに動かす。
「あ、あ、あ」
 俯いた巻島の口元から、とろりと透明な唾液が流れ落ちる。
 巻島の中はとろとろに解れてやわらかく、熱く、東堂の指をきゅうきゅうと締め付けてくる。
東堂は、ごくりと喉を鳴らす。
「巻ちゃん」
 骨の浮きあがった背中に頬を摺り寄せ、唇を落とす。汗の浮いた肌に舌を這わせ、前に回した手を下ろして、立ちあがって濡れそぼる陰茎に触れる。
「ん、あ、さわ、んな……あっ」
 巻島は射精しないまますでに達していて、わずかな刺激にも耐えかねて悲鳴じみた声を上げる。その体を自らの屹立にそっとおろしていくと、巻島は手をついて体を支え、動きについてきた。
 あてがって、ひといきに飲み込ませる。巻島は背中を丸めて短く叫び、下腹をぶるぶると震わせた。ぴったりと触れ合った肌は汗ばんで滑る。歯を食いしばり、馴染むのを待つ。
巻島の体に腕を回して抱きしめ、じっと動かないで、巻島の呼吸が整うのを待つ、この時間が好きだった。馴染むにつれて緊張がゆるみ、締め付けていただけの粘膜が、東堂を自らの意志で食もうとするように蠢くのがたまらない。巻島の意思とは別のところで、体が貪欲に動いている感じがするのがいい。
 まわした腕を引き寄せると、繋がったまま、巻島が東堂の胸元に寄りかかる格好になる。
膝を抱えて開かせ、下半身を完全に浮かせる。巻島は息を飲み、首をのけぞらせて東堂の肩にもたれ、ああ、と溜息まじりに喘ぎを漏らす。
「ふ、か……」
「奥まで入った、な」
 巻島は目を閉じて短い呼吸を繰り返し、体から力を抜いて、波のように押し寄せる快楽をやり過ごそうとしている。中はひくひくと蠢いて、東堂を離すまいと食い締めてくる。
 腰を動かす。巻島は体を固くして堪える。軽く突き上げる。ふ、と呻いて、東堂の手を掴む。突き上げるスピードを次第に速める。巻島は声を堪えることが出来なくなり、あとは東堂の動きに合わせて人形のように体を揺らすばかりだ。
「あ、あ、あっ、あああ、や、あ」」
 繋がったところがぐちゃぐちゃになって卑猥な音をたてる。膝をおろすと、巻島は前のめりに倒れた。肘を立てて腕を伸ばし、自ら尻を差し出すような格好になって、東堂の体に押し付けてくる。
奥で感じようとしてフラフラと揺れる。純粋に快楽だけを追いかける。体をくねらせ、しならせ、長い髪を揺らして、白く泡立ったふちを密着させてくる。
東堂は歯をくいしばって耐えた。もう少し、もう少しだけ巻島の中にいたい。この体が自分を貪るさまを見ていたい。体を強く抱き、背中に祈るように額を押し当てる。巻ちゃん、と呟く。いまの巻島には、この声はきっと届かない。