いつか大人になる日がきても
(2015.5.3)



十三歳



1.


 教室の後ろの引き戸の向こうにピョコンと飛び出してすぐに引っ込んだその顔に、どうして気づいてしまったんだろう。
 小さく舌打ちし、目を逸らして俯き、思い直して溜息まじりに顔を上げて、東堂尽八はようやく椅子から立ち上がった。
「どうした? このクラスに何か用か?」
 巻島裕介は意外そうに目を見開き、あー、と間延びした声で間を持たせて、顎をぽりぽりとひっかく。
「国語の辞書、忘れてきたみたいで……もし、持ってたら…」
「持ってるとも。ちょっと待っていろ。次の時間か?」
「ああ、……悪ィな。たすかるショ」
 ひょろりとした細い体躯を柱の陰にひっそりと寄りかからせて、所在無く俯く姿を一瞥し、東堂は溜息をつく。まったく、そんなことだから面白がっていたずらする奴がいるんだぞ。苛立ちを感じつつ席に戻ると、机の中から辞書を取り出して、廊下へ戻る。
 慎重なたちで、忘れ物や失敗の多いタイプではない。忘れたのではないはずだ。おおかた、そういったことに罪悪感を抱けるような想像力すらない誰かに隠されたのに決まっている。東堂はそう直感する。眉間を険しくして辞書を差し出すと、巻島は昔からまるで変わらない下手くそな笑みを浮かべて、ありがとショ、と呟いた。
「かまわない。明日の三限までに返してくれればいいからな」
 教室に戻る巻島を見送って席に戻ると、机の周りを取り囲んでいた数人が、東堂を見てにやにやと笑った。
「なんだ」
「お前と巻島が幼なじみって、本当だったんだなー」
「そうだが、それがどうかしたか?」
「いや、なんか意外だからさ。オレ、三組に仲のいいやつがいるんだけど、あいつなんか、ちょっと変わってるって言ってたし」
 中学に上がって二か月が過ぎた。クラスメイトの個性を把握し、学年を見渡せば、各クラスの目立つ存在なんかが周知されはじめる頃合いだ。どんな場所にも一定の階層は存在する。勉強が得意なもの、スポーツが得意なもの、容姿のととのったもの、一芸に秀でたもの。それに当てはまらない、今現在はとくにこれといった特徴を持たないもの。
 仲間内での自分の立ち位置などについて全く意識せずに、当たり前のように集団内にポジションをつくれるものもいれば、そういったことに鈍感で輪に入り損ねるもの、自己主張がうまくできないものもなどもいて、それぞれが集まってまた、ちいさな集団を形成していく。
 東堂はそういったことごとを、あまり興味もないまま俯瞰で見ているつもりだった。彼はどちらかと言えば前者に属し、黙っていても周囲に人が集まってくる。すでに他のクラスや上の学年の女子から手紙をもらったりしているし、生意気だのなんだのと上級生から呼び出されたこともあった。
「小学校が違ったし、行き来して遊んだのはせいぜい小学三年くらいまでだったと思うぞ」
「意外だよな、あいつとおまえが幼なじみって。性格とか全然合わなそう」
「巻島ってなんか、ひょろいし、喋り方変だし。あと笑い方がキモいって女子が言ってたショ〜」
「ショ〜〜」
 語尾にショをつけるのが癖なのは昔からの癖だ。それを論ってゲラゲラと笑うのを聞くのも、初めてではない。
「この間の体育、合同でやっただろ。オレ、記録係やってたんだけど、五十メートル走の記録、あいつが一番悪かったんだよな」
「たしかにノロかった! あれは笑ったぜ」
 東堂は、彼らの話をすべて聞き流して曖昧に笑った。反論したい気持ちはあるが、表だってかばい立てするのはなんとなく面倒だった。なにしろ全部事実なのだ。巻島の笑顔は一見不気味だし、足は遅いし、喋り方も変わっている。その事実を、同じように面白がって笑いものにしたいとは全然思わないが、それは巻島が幼なじみだからではなく、東堂自身の、生まれ育った環境で培われた品性によるところが大きい。低俗な噂話に興じる連中を拒みはしない。けれどその輪に加わるのはごめんだ。
 地方の小都市に暮らす中学生の世界は狭く、他者を図るものさしは短い。自分を正当化するべく異質なものを排除する力ばかりが先行して育ったような彼らにとって、巻島は格好の相手だった。
巻島がこのように噂になるのは、彼を取り巻く環境が大きく作用している。
 市内でも有数の裕福な家庭に生まれ育ったせいか、どこか浮世離れしたところがあり、小学生の頃には、すでにまわりから少しばかり浮いていた。
 巻島と東堂は、幼稚園も小学校も違う。知り合ったのは具体的なきっかけがあってのことだったけれど、そもそも知り合う前から、東堂は巻島のことを知っていた。単純なことで、週に一度は訪れていた親せきの家が、巻島の家と近所だったからだ。広い庭に大きな犬が遊んでいる絵に描いたような豪邸で、周辺の住民ならみんなが知っていた。公園で遊んでいるところを見かけたり、スーパーで買い物をしているところに行きあったりしたことがあって、そのつど親せきがあそこのおうちの子よ、と教えてくれるので、なんとなく顔を覚えた。
 友達になってからは、親せきの家を訪れるたび、巻島の家に遊びに行った。巻島の両親はいつも歓迎してくれたし、忙しい東堂の両親に代わって、一緒に遊びに連れて行ってくれたこともあった。
 けれど小学校に上がってしばらくすると、そういった機会はだんだんと少なくなっていった。夏休みに入ったらすぐに旅行、そのあとは長野に避暑に出かけてしまう巻島とは、一緒にプールに行くことも夏祭りに参加することもなかった。高学年になる頃には顔を合わせる機会もほとんどなくなった。東堂が声をかける相手も、東堂に声をかける相手も、とっくに、巻島が一番ではなくなっていた。






十五歳



 夏の間ずっと会わないでいて、秋になって、数か月ぶりに顔を合わせる時には、なんだかずいぶん顔が違って見えるような気がするのが、巻島はいつも不思議だった。
「巻ちゃん、長野ではだいぶ乗り込んできたんだろう」
 ハンドルに伏せていた上半身をくるんと捻って僅差でゴールを獲った巻島に笑いかける顔を見て、今回もまた、その思いを新たにする。
 十四歳の晩夏のことだった。それまでそぶりも見せたことがなかったのに、夏の避暑から戻った巻島を訪ねてきた東堂は、いつものスーパー買い物号ではなく、真新しい白いロードバイクに乗っていた。驚く巻島にあけっぴろげな笑顔を見せて、「走るぞ巻ちゃん!」と言った。
 それからおよそ一年の間に、巻島と東堂の間には、ロードバイク仲間という新たな関係がうまれた。
 巻島の家の付近によい道がないことを知っていた東堂は、月に一度くらい、週末にうちに泊まって乗るのはどうかと提案してきた。
 親の了承はあっさりと得られた。幼なじみってすげえなあと巻島が言うと、だろう、と東堂はいつもの、カラリとした大きな笑顔で笑い、企みがうまくいったことを喜んだ。
 以来、山に雪が積もるまでの間、温泉郷の奥にある峠を二人で登る日々を送っている。
「この辺りはもう、だいぶ秋めいてきたな」
 見上げれば樹木の葉はそろそろ色が抜け始めていて、空は高く澄んでいる。ところどころ広がるうろこ雲を見て、東堂が、明日あたり天気が崩れるかもしれんなあ、と言った。
 その横顔をしばらく見つめて、返事はしないまま手元に視線を落とす。くだりに差し掛かり、ペダルは惰性で回っている。
 峠を温泉郷に戻る道を、東堂の背中を見ながら走っていた。
 巻島は、乗りはじめが長野の山道だったせいか、自転車では山を登るのがずっと得意だった。平地でどんなに遅くても、山に入った途端、スピードの落ちる大人たちをビュンビュンと抜いていけるのが爽快で、夏にだけ会う避暑地の顔見知りの大人たちからは、高校生になったらどこかに所属して本格的に自転車をやったらどうかと言われるほどだった。
 実際、山で巻島にかなう相手はあまりいなかった。蜘蛛のようだと形容される巻島の独特のダンシングで、どんな大人も一瞬のうちに置き去りに出来た。
なのに、ここにきてこんな、一年しか乗っていない、これ以上ないほど見知った相手に負けたりするなんて、本当に承服しかねる事態だ。
「もう一本やるショ」
ムカムカしながら言い募る。今のでタイだ。もう一本やらないと、勝ちにはならない。
「そう来ないとな! 何しろほとんど二か月ぶりだ!」
 下りきったところで止まり、方向転換すると、二人は再度競いながら山を登り始めた。


 ひとりめが旅館の仲居。
 ふたりめが二つ上の高校生。
 三人めは旅行者。もしくは帰省中の大学生。
 少々曖昧だが、いずれも年上だ。仲居に至っては十歳も離れているという。
 その噂は、枯野の野火のようにまたたく間に広まったものらしい。
 新学期早々、巻島ちょっと東堂くんに聞いてみてよ、とクラスメイトにせっつかれたのだったが、聞けるわけがないし、そもそも知ってどうするというのだろう。女子って、本当に謎だ。
 さほど長続きした様子はなかったけれど、告白されてつきあったというのなら、巻島が知っているだけでも過去に二回はある。
 今回の噂が長引いているのは、不思議と具体性があるからだった。隣の市の大きな繁華街で歩いているのを見ただとか、映画館から出てきたとか、いわゆる、いかがわしい建物の並ぶ界隈を歩いていた、とか。東堂の彼女だったのがそのうちの誰であれ、その話には登下校に並んで歩く以上の、特別な接触の気配が濃厚に漂っていた。
 ひとりめの、仲居さんならば、少々心当たりがあった。一番若くてきれいな、あの人のことだろうと思った。巻島は審美眼には自信を持っているし、美人は見逃さない性質だ。巻島の顔を見ると、自転車すごいねとか、きれいねとか言って、笑ってくれる人だった。結婚して一年で旦那さんを亡くして戻ってきたのだと、東堂が話してくれたことがあった。
 仕事が休みだったのか、去年の花火大会で、たまたま見かけた。旅館の和装しか見たことがなかったから、黒いワンピース姿が新鮮だった。白くあいた胸元と、すっきりと伸びた素足のひざ下に目が吸い寄せられるのを自覚してからは、極力存在を意識しないようにつとめた。しばらくしてからもう一度チラリと見たときには、もう姿が消えていた。一緒にいた東堂が気づいていたかどうかは、今も知らない。







十八歳



 峠に登ったあとで、東堂の家の母屋の風呂を使うのはいつものことだ。風呂には温泉が引かれていて、一般家庭のものよりはやや広めのつくりで、洗い場もなぜか二つある。
 せっかくだし一緒に入らんかと言うと少し渋ったが、最後というのが少しは作用しているらしく、東堂が少し強引に出たら、流されたようにあっさり頷いた。
 インターハイでのことは、まだあまり話していない。なにしろ一週間しかたっていない。思い出せば悔しさがこみ上げるし、あらゆるものが記憶として生々しすぎる。終わったのが嘘のように感じることも、未だにある。
 昨日は東堂の、十八歳の誕生日だった。
「十八になった翌日に、オレと風呂に入ってるとか、お前も大概アホっショ〜……あー、ここん家の風呂、久々ショ。めちゃくちゃ気持ちいい」
「むこうでは叶わんだろうからな。堪能しておくといい」
「だよなァ……」
 肩を並べて、ぼんやりと窓の外を見る。夕方の気配が漂い始めた午後の空はなんとなく濁っている。昼間の暑さを思えば、ひと雨来そうな気もした。
 夜は巻島の家に行く予定にしている。ブエルタを見ようという約束には少し早かったが、巻島の渡英の関係もあって、あまり遅くならないうちに一度会っておきたいと、東堂が誕生日にかこつけてせがんだ。
 夏に実家に戻ったのは三年ぶりのことだ。インターハイが終わった直後から部活は新体制に移っている。トレーニングは続けているが明確な目標があるわけでもなく、あまり身が入らないのも事実で、だったらしばらくの間実家でのんびり過ごしてみようと思いついた。自分のペースで高校生活最後の夏休みを満喫するのも悪くない。
 走ろうと言えばすぐに了承を得られたので油断していたけれど、巻島は現在、図書館通いでとても忙しくしているらしかった。謝れば、夏休みの高校三年なんてみんなそうだろ、と返された。そういえばその考えはなかった。そう言うと、おめえは暢気だなあと笑われた。大学に行くという選択肢も頭にはあるが、東堂はまだ、進路を保留にしていた。
 懸念のとおり、家を出ようという時間に大粒の雨が降ってきた。天気予報を調べると夜中まで降り続くとある。
「おめえらしくもねえ」
 巻島は人のせいにして、さっさと泊まる準備を始めた。家に連絡し、明日の予定を確認する。このあたりが幼なじみの気安さだ。風呂に入ることを想定しているので着替えは持参している。何も問題ない。
「油断していたよ」
 東堂は素直に認めた。本当は、急かすこともできた。さっさと帰らないと雨になるぞと、言わなかったことは秘密にした。
 東堂の自室の隣には使っていない和室がある。巻島はこの畳敷きの部屋を気に入っていて、掃除をしていないと言えばわざわざ雑巾がけをしてまで横になりたがった。両手足を思い切りのばして、そのままの格好でだらりと力を抜く。目を閉じた、警戒心のない顔。丸まった指先。畳に散った玉虫色の髪のうねりを上から見下ろし、東堂は溜息をつく。腹の奥が熱く、重く痺れている。
 メシの支度をしてくるよ、と声をかけて背中を向けた。いったい今、自分がどんな顔をしているのかと考えれば恐ろしかった。
 巻島の目がその背をずっと追っていたことになど、気づきもしなかった。




********


平らな腹を撫で、少しだけやわらかい下腹部を辿って、さらに下へと手のひらがのばされる。巻島のそこはすでに兆していた。屹立したその先端を指先でつままれて、それだけのことで腰が跳ねた。半分うつ伏せになって逃れると、東堂はのしかかるようにして体を密着させてき、巻島を下に閉じ込めて、無遠慮に中心を擦りはじめた。
「あ、……っ、は」
 巻島は体を丸めてぶるぶると震えながら、その刺激に耐えた。いやいやをするように首を振る。もう片方の手が乳首をこねるのに、また体が浮き上がるほど反応してしまう。
 顔を斜めにして東堂を見上げた。目つきは必死そのものだが口許はほほえみに近い形で歪んでいる。巻島は再び枕に額を押しつけ、東堂の動きに合わせて腰を揺らした。気持ちがいいのはどうしようもない。こんなふうに他人の手に触れられるのは初めてなのだ。
 顎を掴まれて横向きにされ、キスをされた。差し入れられた舌に口の中を弄られるのを夢中になって追いかけ、逃げ回る。そうされながら解放を誘うように強く擦りたてられれば、巻島は息をつめて体を震わせ、あっさりと達した。半分立てた膝から力が抜けて、下腹がひくひくと収縮を繰り返す。
「はっ…はっ、……はあ……っ」
 内股を引き攣らせ、上半身をぺったりと布団につけて脱力していると、いったん体を離した東堂が再び戻ってきた。巻島の腰を抱えて隙間に手を差し入れ、周囲をやわやわと揉みほぐし始める。
 巻島は枕に縋って大きく息を吸って吐き、違和感に耐えた。いつのまにか、何かとろりとした液体で下半身が濡れている。東堂の指は液体を塗り広げるようにそこを何度か往復したあと、窄まりのふちを撫でながら、ゆっくりと中に入り込んできた。